親不知の話
昭和ひと桁生まれの母方の祖母は受け口で、終戦後、女学生だった当時、和歌山県は田辺市からはるばる大阪市内まで歯列矯正に通っていたらしい。
隔世遺伝を見事に受け継いだ私もまた受け口かつ乱杭歯で、小学校6年生から高校3年生まで、歯の矯正をしていた。
晴れて大学に入る直前に全ての矯正器具は取れ、私は新しい歯ならびで新生活をエンジョイ出来ることとなった。
そして幾年かの歳月が流れ、なんだか歯ならびがまた悪くなっているのに気付いた。
一時はまっすぐに揃っていたはずの前歯の両横の歯が、また前歯の裏側に入り込もうとしている……!
昨年末に知覚過敏の症状で歯医者にかかった際、上の左側の親不知が出てきていることがわかっていたのだが、
「特に痛いとかじゃなければ様子を見ましょう」ということで、そのままにしておいたのである。
しかし、せっかく歯列矯正した歯が元に戻ってしまうのは、困る!
前回行ったクリニックはこじんまりしていて、恐らくまだ頭を出したばかりの親不知を抜歯してもらうのには紹介状を書いてもらうことになる。
それならいっそ、最初から抜歯が出来ると明記されている大きいクリニックで治療してもらうほうが良い。
最寄り駅の近く、大きな商業施設のクリニックが集まったフロアにあるクリニックに行くことにした。
レントゲンを取ったところ、私の上あごには左右とも、親不知が生えてきているようだった(右側に関してはまだ顔を出す気配はない)。
前述の歯科矯正を行っていた頃レントゲンを取った際は、下あごの右側しか親不知が無かったはずなのに。
親不知、恐るべしである。
「頰の柔らかい骨の部分と重なっているように見えます。
上あごの親不知はどんなに口を開けてもらっても、こちらからは見えません。
なので、手の感覚と"勘"が頼りです。
どうしても、100人に1人くらい、抜歯の際に骨部分も一緒に取れて、
しばらく鼻から歯茎がつながってしまう場合があります」
医師の穏やかでない説明にどぎまぎする。
「まぁ、その場合また手術して塞ぎます」
フォローのような言葉をかけてくれるが、何の支えにもならない。
100人に1人は多くないか。
「例えば、抜きやすくなるためにこの親不知を放っておいたらどうなりますか」
「確実に、どんどん歯並びは悪くなります」
「なら、抜いて下さい!」
というわけで、一週間後に抜歯を行うことになった。
金曜日の夜に手術の予定を入れ、本当は社内カレンダーで出勤日だった土曜日に有給休暇を取った。
多少は腫れるかもしれないが、土日の2日間があれば少しはマシになるだろう。
手術は、30分もかからなかった。
麻酔注射をして、それが効くまでの時間も考えれば、私の口腔内で何かが行われていた時間は20分足らずであろう。
年間何百本も抜歯を行う手練の医師だけあって、これでも手こずった方だとのコメントを頂いた。
そして、どうやら頬の骨は無事だったようで、うがいをして鼻から水が出てくるようなこともなかった。
処方されたロキソニンは3錠しかなかったので、次の日の朝にはすぐに薬局に行って、追加のロキソニンを買った。
結局、もともと頬に脂肪がついているので目立って顔が腫れている状態にもならず、痛みも引き、月曜にはいつも通りに仕事が出来た。
抜歯、でなく、抜糸の際に、「右上の親不知も出てきますか」という質問を投げた。
「そうですね、レントゲンを見た限り、出てこないと思います。
でも、90歳のおばあちゃんでも親不知が出てきたりするんですよ」
「90歳……!」
願わくば、このまま墓場に入るまで、生えてきませんように。