2016年4月27日(水)の日記
大学の後輩のまなみさんと一緒に国立国際美術館で展示中の『森村泰昌:自画像の美術史ー『私』と『わたし』が出会うとき』展を観てきた。
森村氏の作品を観るのはこれが2回目。
前回は12年前、花の(?)女子中学2年生の夏休みに伊賀へ家族旅行に行った帰りに、無理を言って滋賀県立近代美術館に寄ってもらった際だ。
開館20周年記念展 コピーの時代 -デュシャンからウォーホル、モリムラへ- « 滋賀県立近代美術館
当時、私はまさに厨二病を発症しており、図書館で大塚英志や佐藤友哉を借りては読むという毎日だったのだが、
ちょうど嶽本野ばらの作品もひととおり借りたなかで、マルセル・デュシャンの作品に関する記述があって頭に残っていたのだ。
そこから興味を持って行った展覧会だったが、現代美術とはなんやるかもオーソドックスな美術史も知らぬまま目にする作品群は、衝撃であった。
自分が今まで教科書で目にしてきた絵画や彫刻作品だけが美術・芸術・アートではなかったのだと感じ、
では果たして模倣や複製をすんなりそれらと同じ範疇でくくれるかどうかというと自信無かった。
答えのない質問を14歳(誕生日が来ていなかったので正確には13歳)の私は漠然と抱え、帰阪したのであった。
そして今日、実に12年ぶりに森村泰昌の作品を見てることとなった。
その12年の間に美術史については全く専門的な勉強はしなかったものの、面白そうな展覧会が関西に来た際には訪れるようにしている。
高校生の頃サントリーミュージアム天保山で観たミュシャやガレ、美術の授業の課題で見に行った藤田嗣治、大学や社会人以降は山口華楊、マグリットなど、
あんまりジャンルを問わず、といっても関西で行きやすいところばかりなので若干偏るものの、時間と交通費と同行者の許す限りにおいて展覧会を観に行った。
別にそれで目が肥えたわけでは全然ないものの、画家が対象をどのように見ているかや何故その構図に決めたのかなど、作品と対峙する時は自分の中に無限に問いがぽこぽこ湧いて出てくる。
時にそれはキャプションで説明されていたり、画家のその頃の私生活の様々な側面が反映されていたりするのだが、
説明のつかない、私が脳内で想像して妄想して補う……自分なりの答えを見つけるしかないものが大半だ。
今回の展覧会から、森村泰昌は『画家が描いた自画像』に対するそういった問いの答えを、あるいは問い自体を、画家に扮し自画像を模倣することを通じて、探しているのだと感じた。
最後に展示されている映像作品は60分を超えるもので、上映時間の兼ね合いもあり全編観られるか不安だったが、最初の5〜10分ほどを見逃しただけで最後まで観ることが出来た。
これを観ずに帰らなくてよかった。
美術史について全く門外漢(門外女?)の私であるが、ちょっと勉強しないといけないな、と感じたのは、
アンディ・ウォーホルの格好に扮した森村泰昌を観て『箭内道彦?』と最初に思ってしまったこと。
ウォーホルの作品自体は知っていてもあんなオシャレ金髪サングラスな外見だなんて知らなかった……。
また、『田中一光ポスター展』も同時に開催されていて大変私得であった。
中学生の時に美術の図表で一目惚れしてから、その無駄を一切省きつつポスターとしてインパクトを与える作風に『かっこいい……』と思っていた。
そのようなポスターが一同に集められているのを見ると、やはり圧巻だった。
イラストや配色のみならず文字表現やレイアウトのバランスが絶妙で、『どうやったらこういう発想が出来るんだ』と不思議になった。
そういう意味では自画像と違いポスター作品は商業性が全面に出るので、作者の意図が余計に隠されていてわかりづらいかも。
行く人を探されていたまなみさんには本当に感謝。
今年ももう4ヶ月経ってしまったが、また色んなものを目にしにいきたいな。